eroticism salon
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近況報告

お久しぶりです。


ここを更新するのは本当に久しぶりです・・・



私は大学院を卒業後、無事に就職をいたしまして、修士論文とはまったく無縁の業界で働かせていただいています。


ただ、ここで綴った思想といいますか、エロティシズムについての考えは、現在の私の物事を考える上での基盤となっています。


なぜならば、エロティシズムを考えるということは、すなわち生と死を見つめるということに他ならないからです。


以前の記事でも書きましたが、エロティシズムは人間固有のものであり、人間であるからこそ、エロティシズムが存在するのだと私は思っています。


だから、私はエロティシズムに惹かれたのだと思うし、飽きもせずに研究してこれたのだと考えています。


誰だって、自分の存在を確かめたくなるものでしょう?


私はその根拠をエロティシズムに求めました。


そして、ひとつの答えを見つけられたのかな、と思っています。


答えというのは、すなわち、自分の信念というか、生きていくうえの指針です。



私は快楽主義の考えが好きで、快楽を追求して生きていけたらと思います。


これは、何も性的行動のことのみを指すのではなく、例えば、仕事もできないよりはできて褒められたほうが気持ちいいから頑張るとか、おいしいものを食べたほうが気持ちいいから料理の腕をあげるとか、そういったことも含めてです。


自分が気持ちよく人生を全うするための努力は惜しまないのが、快楽主義なのだと私は解釈しています。



・・・なにやら恥ずかしい話になってしまいました。


いつもはそんなに突き詰めて考えたりはしてないんですけど。


現在はここで取り上げた類の書物を読んだりする機会も減ってしまいましたが、たまには仕事の息抜きに読めたらなぁ・・・なんて思ってもいます。


まだまだ当分、このエロティシズムの世界に魅了されて生きていくんだろうなー・・・というのが、最近の私の感想です。

ご報告

この度、無事論文を書き上げ、大学院を卒業することができました。

途中、このブログを更新することもままならなくなりましたが、とにかく終わったことに対して安堵しております。


このブログの当初の目的は達成したことになりますが、とりあえず閉鎖することはせずに、気まぐれに更新していきたいと思っています。


ものすごいスローペースになるかと思いますが、あまり期待せず、見守っていただけたらと思います。

よろしくお願い致します。

童貞の意義

「あらゆる性的倒錯のうちで、一番理解しがたいのは童貞(純潔)である」

- バーナード・ショー -



澁澤龍彦は、ショーのこの言葉を紹介した後で、「人間を駆り立てる肉の欲望が自然なものである以上、この能力を使おうとしない人間は、確かにショーの言う通り、この世で一番理解しがたい種類の人間である、と言い得るかもしれない」と述べています。

それほど、エロティックな快楽の欲望が、誰でも持っている当たり前な欲望であると言いたかったのでしょう。

今回はこれだけです。ちょっと面白いと思ったので、紹介しました。
皆さんはどう思われるでしょうか。


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多忙につき

修論のためにこのブログを書いてきたのですが。
肝心の修論がいよいよ忙しくなってきたので、なかなか更新できません。

読者の方に申し訳ないです。

それでもなんとか続けて書いていきたいとは思うので、気長に楽しんで頂きたく思います。
よろしくお願い致します。

第二の性

「女性の性愛における正常な幸福のあり方は、女性が自分の受動性によく打ち勝って、相手の男性と一つの対等関係をうまくつくり上げることを前提とする。・・・男のほうで、彼女の自由を十分認めつつ、彼女を肉体として欲望してくれるなら、彼女は客体になる瞬間に、自己を本質として再発見するし、すすんで同意する服従のうちでは、あくまで自由でいられる

- シモーヌ・ド・ボーヴォワール -


これはフェミニズムに大きな影響を与えた、ボーヴォワールの代表作『第二の性』の中の一節です。女性の地位を引き上げようと提唱する女性解放論の古典ですが、やはり、性愛に関しては男女の同列を説くのは厳しいかと思います。

ボーヴォワールも女性の本質は客体であることを認めながら、苦しい言い訳をしています。
むしろ、男女のどちらが劣っているとかではなくて、エロティシズムにおいては男女はそれぞれ全く別の法則に支配されていて、それが男女でうまくかみ合っているということなのでしょう。

性交において、女性が主体性を持つことなど、ありえないのですから。
むしろ順応することに、女性の快楽は存在するのです。


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視線のエロティック

見るということは所有することである。・・・対象に向けられた視線は、相手を物体として犯すことになるのだ」

- 澁澤龍彦 -



話が前後して申し訳ないのですが。

以前、男性の性欲を刺激する最も大きな要素は視覚であるという話をしました。
それは、男性は想像することによって、脳内で興奮するからだということも。

頭の中で、男性は対象となる女性を自分の思うままに想像します。
その対象となる女性はもはや人間ではありません。
肉体です。
自分の言うがままに動く単なる物体でしかなくなってきます。

性的な意味を持った視線は、女性を物体化します。
それは、女性が男性の前で客体化する動きとシンクロしていくのです。


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補足

女性のエロティシズムが受動的であるからといっても、それが男性の性愛の法則への盲目的な服従であるとか、男性の能動的エロティシズムに対して劣っているということではありません

男と女のエロスの世界は違うものだということです。

それぞれに優劣をつけること自体、馬鹿らしいことです。

男性に気に入られることは、確かに女性にとって重要な問題ですが、それで女性の価値をはかるのはナンセンスです。
それでは男性の価値は勃起力にある、といっているのと同じです。

要は、男性と女性の持つエロティシズムの法則は、あくまで別物だということです。


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女のセックス

「女のセックスとは、だから欲望するものではなくて、本質的に欲望されるところのものである」

- 澁澤龍彦 -



フェミニズム論者には怒られそうな話ですが。

以前お話ししたように、女性のエロティシズムは本質的に受動的です。
男性がその気にならなければ、性交は不可能だからです。

ですから、女性のエロティシズムを支配する本質的な要素の一つは、自分の中に欲望の芽を育てることではなく、相手のうちに欲望を掻き立てることです。

言い換えれば、女性はまず相手をその気にさせなければ、自分自身の欲望を満足させることが出来ないのです。

そのために、女性は自己を客体化させます。
この話は、また後ほど。


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サドの思想

「死と慣れ親しむためには、淫蕩(リベルタン)な観念と死とを結びつけることより以上の良策はない

- マルキ・ド・サド -



マルキ・ド・サドは18世紀フランスの作家です。
彼の作風から『サディズム』という言葉が生まれました。

度々取り上げているバタイユも澁澤龍彦も、サドの研究家として有名です。

エロティシズムを考えるにあたって、避けては通れないのがサドの思想であり、サディズムです。

なぜなら、死とエロティシズムは非常に深い関係にあり、その関係を突きつめたものがサディズムだからです。


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女のエロティシズム

男の欲望が攻撃的であり、能動的であるのに対して、女の欲望が受動的であるということは、動かしがたい真実のようである」

- 澁澤龍彦 -



体の構造上、そうならざるを得ないでしょう。

男性は勃起状態でない限り、性交をすることは出来ないのに対し、女性は例えば膣痙攣のような障害を別にすれば、どんな場合でも性交が可能です。
極端な話、死んだ女性とだって、性交は可能です。

つまりは男性がその気にならなければ、性交は出来ない、ということです。


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